1話 上の森の精霊譚

 山のふもとから細くうねる山道を登りきったところに、カゲという村があった。穏やかな気候と山の幸に恵まれた村である。カゲの村人たちは豊かな自然に感謝を捧げ、慎ましくも満ち足りた暮らしを送っていた。

 カゲの背後にそびえる山の頂上周辺に、「かみの森」がある。神秘の領域である。標高は森林限界を超えているのだが、季節を問わず高木が緑のこずえを茂らせている。乾季ですら岩肌は湿った苔に覆われ、時折り風に乗って何とも言えない芳香が麓にまで届くこともあった。

 多くの生物にとって魅力的なはずの上の森だが、山の獣が上の森に立ち入ることは決してない。鳥もその上空は避けて飛ぶ。まるで、上の森の入るべきでないことを知っているかのように。

 カゲには昔から、上の森にまつわるおとぎ話が語り継がれていた。曰く、上の森は精霊か妖精の類が住む隠れ家である。森の主は青の大月だいげつが銀の小月しょうげつを覆い隠す夜にのみ姿を現す。もしも清らかな心の持ち主が森に入れば、森の主はその者が最も必要とする存在を––例えば親を喪った子には慈悲深い庇護者を、恋人に裏切られ傷つく女には忠節の化身たる美丈夫を––つかわすという。だが、傲慢な者が訪れれば森の主の怒りに触れ、生きて帰ることはないとされている。

 さて、カゲには薬師のシカルという男が住んでいた。シカルは自然を深く崇拝しながらも合理的な思考の持ち主である。シカルの解釈では、このおとぎ話は自然の恵みと恐ろしさを伝える民間伝承だった。確かに森の異様さは否定し難く、そこが自然科学にとっての未知と神秘の宝庫であることは疑いようがない。だが、言葉を発して人を惑わす物の怪や、小月にとぐろを巻く巨大生物が実在するこの世にあっても、願いを叶える精霊などという話はあまりにも幼稚すぎる。

 シカルは村人たちにたびたびこう説いていた。

「上の森には決して近づくな。自然は人間を罰することも愛することもない。ただそこに在るだけのものだ。都合の良い精霊を信じるより、自然を正しく恐れ敬うのが賢明な生き方だ」

 人々から敬愛されるシカルの忠告を村人たちは素直に聞いた。それでも、救いようのない絶望に襲われた村人が上の森に姿を消す事件が時々発生した。

(おとぎ話にしか救いを求められない者が絶えぬのもこの世の病理。わしが何とかせねば……)

 シカルは病との縁が深かった。

 幼少の頃、「この子は病弱だから五年より長くは生きられぬ」と宣告された。シカルは薬漬けの苦しい治療に耐え、この運命を覆し、並外れて心身壮健な男子に成長した。

 十五歳の時、カゲを襲った伝染病でシカルは家族を全員失った。だがシカルは、この喪失すらも人生の糧とし、薬師として病と闘うことを己の使命と定めた。遺産をはたいて古今東西の薬学書を買い求め、各地を旅して草木と医療の見聞を深めていった。

 この時よりさらに十五年後、再び村を伝染病が襲った。既に腕利きの薬師として知られていたシカルは、手指の骨が折れるほど薬の調合に熱中し、完成すると無償で村中に配布した。シカルが過労で倒れるころには伝染病はカゲを去っていて、村人は全員無事だった。シカルは自らが歩んできた道の正しさを確信し、ますます技量の研鑽に励んだ。

 シカルは村人から謝礼をほとんど受け取らないので常に貧しかった。身に着けるのは決まって擦り切れた草履と色褪せた襤褸ぼろ。独り暮らしのあばら家には仕事道具ばかりで家具の類は皆無。酒、賭博、女には目もくれない。村人たちはそんなシカルを見て、仁愛に生きる清貧の賢哲と、かえって敬愛の念を深めるばかりだった。

 だが、そんなシカルにも思いがけない転機が訪れる。

 つぼみがほころぶころ、カゲには珍しいことだが、行商人の一団が訪ねてきた。この一団にイサという女がいた。彼女のどこか陰のある美貌はたちまち村人たちの噂となった。

「綺麗だ。あんな美人は滅多に見ないな」
「だが、恐ろしく無口だ。この村に来てもう三日になるが、喋るところを誰も見たことがないらしい」

 イサは村人の噂話など意にも介さず、商いの雑用を淡々とこなす。そこにシカルが買い物にやって来た。
「薬草を摘むのに使う小刀を売ってほしいんですが––」
 イサと目があったシカルがしんと黙り込む。イサの目に深い悲嘆と孤独を見出したのである。それはシカルが十五歳の時、家族を根こそぎ病に奪われた時に味わったものだと一目で見抜いた。

「あなた、寂しくてどうにかなっちまいそうだって顔ですね」
「えっ?」

 薄紅色の唇からこぼれたのはうれいを帯びた声。イサがカゲで声を発するのはこれが初めてのことだった。

「藪から棒に失礼。儂は薬師のシカルといいます。親兄弟とはとうの昔に死に別れた独り身の寂しい男です」
「そうなんですね」
「仕事が終わったら儂の家に来ませんか? 二人で話がしたい」

 シカルが女を口説くとは、と村人たちは驚いたが、イサが微笑と共に申し出を快諾したのも更なる驚きであった。

 夜になると、イサは約束通りシカルの家を訪れた。何もないあばら家で、二人は互いに身の上話をした。

「私は流行り病で大切な人を大勢失いました。家族も、友人も、仕事仲間も。親の伝手で行商人の仲間に加えていただきましたが、うまく馴染めなくて……いつも寂しい思いをしているんです」

 元来口下手で自分語りを嫌うイサだが、この夜に限っては饒舌だった。シカルの知と胆力に裏打ちされた包容力がそうさせたのである。
 一方、これまで色恋沙汰に無関心だったシカルもまた、遅い初恋に打ちのめされていた。イサの美貌、知性、そして品性は、恋愛に淡泊なシカルすら魅了したのである。

「イサさん、寂しいならこの村に残りなさい。儂と一緒に暮らそう」
「えっ、シカルさんと?」

 イサが驚きの声をあげるが、表情に負の感情は見て取れない。むしろ、初めからそれを期待していたかのような喜びの色すら浮かんでいる。

「儂と一緒になっても金持ちにはなれない。だが、いずれ薬師の頂点に立つ男の伴侶にはなれる。イサさんが二度と悲しい想いをせずにすむよう、あらゆる苦難から守って見せますよ」

 イサは言葉ではなく、シカルの逞しい体に身を寄せることで意志を伝えた。二人はこうして男女の仲となり、やがて夫婦となった。

 シカルの人徳もあり、イサはすぐにカゲに馴染んだ。自然に囲まれ、シカルと共に人助けに生きる日々は、イサに活力をもたらした。最初の陰鬱さが嘘だったかのように笑顔が増えた。

 イサは行商の手伝いをする前は調香師ちょうこうしを生業としていた。そのせいか、上の森から漂う幻妙な香りの発生源をよく気にした。

「イサは上の森から吹く風が好きなようだな」
「本当に不思議な香り。私が知ってるどの花や果実とも似ていないの」
「上の森は常識が及ばない土地だ。未知の新種がわんさか生息していてもおかしくない。だが、獣や物の怪が避けて通るのを見るに、儂ら人間も命が惜しいなら近づくべきでない場所さ」
「それもそうね」

 賢明なイサは行き過ぎた好奇心は毒でしかないことを知っており、上の森に行きたがることは決してなかった。

 シカルとイサの新婚生活は順調そのものだった。だが、雨季が終わるころに事態は一変する。イサが奇病の症状を呈したのだ。

「イサ、安心しろ。儂がすぐに薬を作ってやるからな」

 必要な薬草とその生息地をシカルはすぐに判断できた。絶対に救えるという確信もあった。

 しかし、不運は重なる。豪雨によって、川にかかる橋が流されてしまったのだ。薬草の生息地は川の向こうだが、橋の再建を待つ猶予はない。

「何を! 雨ごときを恐れる儂ではないぞ!」
「行かないで、シカル。私なんかのために命を賭けないで!」

 イサが必死で止めるが、シカルにその選択肢はない。薬師として、夫として、イサを救わねばならぬ。氾濫はんらんする川に飛び込み、流木で左目に重傷を負いながらも対岸へ渡り切る。獣に襲われ、ぬかるみに足をとられ、土砂崩れに巻き込まれ、それでも命からがら薬草を摘んでカゲに戻った。

 だが悲劇、イサは既に死んでいた。

「イサ……こんなはずでは……」

 さしものシカルも、人生で唯一愛した女を喪う悲しみには耐えられない。三日三晩を泣き叫んで過ごし、涙が枯れ果てると家に引きこもり、誰とも話さなくなった。

「イサ……なぜ? どうしてイサが死ななければならない……」

 あばら家で独り、シカルは誰に向けるでもない恨み言を呟き続ける。左目は怪我が悪化して失明寸前だったが、治療する元気もない。

「儂が悪いのか? 親も、兄弟も、妻すらも奪われなければならないほどの罪を儂が犯したとでも言うのか? 儂は善く生きてきた。己の生き方に後ろ暗いことなど何一つない。それなのに、何の因果があってこのような仕打ちを受けなければならないのか!? 天よ、山よ、この理不尽と残酷、決して許さぬぞ!」

 その時、一陣の風がシカルの家に吹き込む。世を呪うシカルの鼻孔を芳香が刺激する。上の森から漂う、あの香りである。イサはこの香りをいたく気に入っていた……

「イサ……会いたい……それにしても良い香りだ……まるでこの世のものではないような……」

 一方村人たちは、シカルの苦しみを察するあまり慰めの言葉すら思いつかない。だが、シカルの幼少期を知る者たちはいずれ立ち直ると確信していた。ある老人は落ち込む村人たちをこう言って励ました。

「シカルは十五歳で天涯孤独の身となった。だが、悲しみを自ずと乗り越え、やがて薬師として大成したのだ。私たちが心配せずともシカルは必ず立ち直る」

 果たして、山が新緑を身にまとう季節になると、シカルは晴れ晴れとした表情で村人の前に姿を見せるようになった。村人はやはりシカルは不撓不屈ふとうふくつだと感心したが、どうも様子が明るすぎる。ある者が「随分と好調のようだが、何か良いことでもあったのか?」と尋ねると、シカルは瞳を輝かせてこう答えた。

「上の森の精霊がお呼びだ。次に大月が小月を覆い隠すころ、儂は上の森へ向かう。イサに会うのだ!」

 ああ、なんたることか。あの怪力乱神かいりょくらんしんを語らぬシカルが子供だましのおとぎ話にすがるとは!

 村人たちの失望とは裏腹に、シカルは日に日に不気味な精気に満ちていく。虚ろな目に暗い希望の光を宿し、常に上機嫌な様子。何もないのに急に笑い出したかと思うと「大月よ、もっと早う回れ。一刻も早く小月を隠したまえ!」と歌い出す始末。村人たちはもはやため息をつくしかない。尊敬する者の狂態を指摘するのには勇気がいる。

 だが、カゲにはヘナイという男がいた。愚かだが勇敢で思いやりがあり、昔難病の妹をシカルに救われたことを終生の恩義と感じていた。ヘナイはこのままでは駄目だと、歌い狂うシカルに一喝した。

「生きて死者に会うことはできない! 僕のような愚か者でも知っていることです! 妄想はお止めになって、賢いシカルの旦那に戻って下さい!」

 シカルの目から光が消え、きょとんとして黙り込む。その日、シカルが上の森の話をすることはなかった。村人たちはヘナイを「よく言ってくれた」と褒めたたえた。

 ついに大月が小月を覆い隠す日が来た。ヘナイの一喝がまだ効いているのか、この日もシカルは大人しい。だが、シカルが帰宅すると室内はなぜか上の森の香りに満たされている。明らかな異常事態だが、懐かしい感覚にシカルは冷静さを奪われ、ためらうことなくそれを吸い込んだ。

「イサ……ああ、イサ……」

 イサの笑みが、声が、柔らかな肌の触感までもが思い出される。外を見ると、上の森の上空に、小月の後を追うように大月が昇り始めている。その光景を見つめるシカルの目に、また妖しい光が宿った。

「そうだ、今日は約束の夜だ……行かねば……」

 シカルはろくな支度もせず家を飛び出し、上の森へ向かった。気付いた何人かの村人が必死で後を追うが、シカルの急ぎ足に追いつける者はいない。

 大月がいよいよ小月に追いつき、その姿を背に隠さんとするころ、シカルは上の森に到着した。

 息を吸うほどに、イサとの思い出が脳裏を駆け巡る。

(行かねば)

 シカルはほとんど左目が見えていない。だが、生い茂る木々の隙間から、大月の青白い光が煌々と道を照らしている。香りは明らかにその道の先から漂っている。

(イサはこの先で儂を待っている!)

 シカルは確信し、森に足を踏み入れた。

 木々の隙間から、神秘の森すら恐れぬ力ある獣や物の怪がシカルを見つめている。だが、イサにまた会いたいという願いでいっぱいのシカルに、もはや恐れを感じる隙はない。監視者たちも、シカルを見つめるばかりで決して手は出さない。

 シカルは休みもとらず走り続けた。木の根に躓いても、つるが絡まっても止まらない。超人的な体力の持ち主であるシカルも、さすがに足が棒のようになってきた時、唐突に樹木が一切生えていない広場のような場所にたどり着く。

 「一本道だったはずだが、どこかで道を間違えたか?」

 動揺し、あたりを見渡す。すると、いつの間にか広場の中央に人が立っている。見間違えようもない。その人はシカルが誰よりも求めてやまない人、イサその人である。

「イサ……イサ!」

 駆け寄ろうとするが、疲労で足がもつれ、その場に倒れ込んでしまう。シカルは感激のあまり、そのまま泣き出してしまった。

「すまない……すまない、イサ! 儂は薬師なのに、君の夫なのに! 君を守れなかった……もっと、君を幸せにするはずだったのに! すまない……どうしても謝りたかったんだ……」

 イサは笑みを浮かべてシカルを見つめている。表情はたおやかで、シカルの罪を咎める気配はなく、後光が輝いていた。

「イサ、どうかまた君を抱きしめさせてくれ……」

 立ち上がろうとした時、なぜか不意にヘナイに一喝されたのを思い出した。

(生きて死者に会うことはできない!)

 それは悲嘆に暮れるあまり、シカルの精神の奥深くで眠りについていた彼本来の賢さ、賢者が発した警告である。シカルは状況の不自然さに気付いた。

 人が滅多に立ち入らない上の森に道があったのはなぜ?
 獣や物の怪が潜む森でイサが一人無事でいるのはなぜ?
 イサから後光が差し込んでいるのはなぜ?

 シカルははっとして、右目を閉じ左目だけでイサを見る。すると、おかしい、もはや像を結ばないはずの左目に、イサの姿だけがはっきりと映るではないか!

(逃げよシカル! あれはイサではない!)

 賢者の叫びがシカルを覚醒させる。光を背負うイサに背を向け走り出す。イサが追ってくる気配はない。逃げられるかもしれない、そう思ったその時––

「シカル」

 イサがぽつりと呟く。

「イサ……」

 愛した女の声が足を止める。あの香りが、今までにない濃密さで周囲に漂っている。

「シカル」

 イサが再び呟く。振り返ってはならない。この香りを嗅いではならない。賢者はそう言っている。だが、イサとの思い出があふれ、その声をかき消していく。振り返れば思い出は過去ではなくなり、続きを見られるという確信は増すばかり。

 もはや耐えられない。シカルは振り向いてしまった。

「シカル」

 距離があったはずなのに、イサはシカルのすぐ後ろにいた。

「シカル……」

 イサがまた呟く。だが、シカルはついに気付いた。イサは笑みを浮かべるばかりで、口は全く動いていない。瞬きも呼吸もしていない。シカルを呼ぶ声はイサの口ではなく、その頭上から発せられている……。

 見上げると、そこにはシカルをはるかに上回る巨体の黄金の蜘蛛がいた。

「あ……ああっ……」

 明らかに超常の存在である。体の大きさは家ほどもある。全身はぬらぬらと湿り気を帯びた黄金の光沢を帯びている。八つの目は銀の宝玉のように爛々らんらんとしている。背には極彩色ごくさいしょくの草花が咲き乱れている。鋏角きょうかくには血染めの布が引っかかっている。シカルはそれが、過去に森に姿を消したカゲの村人の衣服であることを認めた。

 イサの幻が消え、イサとの思い出に支配されていた思考が鎮まる。後に残るのは蜘蛛と、致命的な過ちを悟った賢者だけである。

「あのおとぎ話は……森の主とは其方そなたのことか……」

 知ってみれば、神秘の正体はあまりにもあからさまである。

 この場所が広場になっているのは、蜘蛛がその巨体を収めるためにそうしたからだろう。広場まで続く道は、単に獲物が通りやすくするためのもの。獣や物の怪に襲われなかったのは、既にシカルは森の主の物だったからだ。蜘蛛の背の花々からは例のあの香りが発せられている。どうやらこの香り、食虫植物が獲物を誘い込む罠の類だったらしい。自分もまた、あの衣服の持ち主たちと同じく、まんまと誘い込まれたのだろう。

 蜘蛛はこちらを見つめるが、すぐには手を出してこない。もはや生還を諦めたシカルはなぜ自分がこうなったのかを内省し、一つの答えに達した。

「森の主よ。儂は悟った。この事態は儂の傲慢さが招いたものだ」

 シカルが蜘蛛に語りかける。

「ヘナイが勇気を出して儂に忠告してくれた時、『お前のような愚か者に言われたくはない』と思う心がわずかにあったことを認める。自分を賢い男と思い込む傲慢さの証左と言わざるを得ないだろう」

 蜘蛛が鋏を打ち鳴らす。まるで告解の続きを促すかのように。

「それだけではない。理不尽への恨みがそれ以上の傲慢さを儂の中に育てた。儂は善く生きてきたのだから、大切な人を病に奪われるのはおかしい、もっと報いを寄こせと思ってしまった。矮小な人の理で偉大なる自然の摂理を否定したのだ」

 シカルは衣服を脱ぎ捨て、蜘蛛の前にひれ伏した。

「森の主よ。儂は、儂自身の傲慢さの報いで、今ここで死ぬことを受け入れる。願わくば、わが身は其方の血肉となれ。願わくば、わが霊魂はカゲを病魔から守る鬼となれ」

 シカルは罪を償おうとしたわけではない。罪など、所詮は人間の善悪の尺度の産物である。理を忘れた愚者の末路に蜘蛛がいたことに因果はないのだ。

 蜘蛛の猛毒によって、シカルは苦痛や恐怖を感じる間もなく静かに死んだ。蜘蛛はシカルの遺体を跡形もなく食い尽くすと、森のどこかへ消えて行った。


 カゲの村人たちは、偉大なる薬師を森に奪われた悲しみに暮れていた。

 誰よりも深い悲しみに沈んでいるのはあのヘナイである。恩人を救えなかった己の無力に打ちのめされ、わずか数日で老け込んでしまった。

「俺が旦那をもっとしっかり見張っていればこんなことには……すまねぇ……」

 もういないシカルに詫び続けるヘナイ。

 その時、山高くから一陣の突風が吹き込む。ヘナイの鼻孔を心地よい香りが撫でた。

「なんだ? 嗅いだことがない良い匂いだ。……まるでこの世のものではないような––」