テナチ王国ズミ州チヤレ県の山中を、一人のテナ人の男が移動している。男は百九十チェコーム(※長さの単位。一チェコーム≒一センチメートル)に達する長身で、肌は日に焼けて浅黒く、体は筋肉で引き締まっている。陰惨な修羅場を潜り抜けてきた経験が、彼の若々しい顔立ちに暗い迫力を与えている。
男の名はレゾと言う。レゾはロヤと名づけた雄の労獣に大量の荷を運ばせ、自身は荷袋と槍を背負い、平地を行くかのように軽やかな足取りで北西へ、彼の故郷であるラガンを目指している。
山の闇が濃くなっていく。空には雲が多く、青の大月は姿を見せたり隠れたりを繰り返している。ラガンまでもう少しの距離だが、ロヤを休ませるために適当な岩陰で野宿の準備をし始める。
眼下の山の斜面にはひたすら森が広がっている。目を凝らすと、そこにラガンがあると知る者にしか気付けないほど細々したラガンの生活の明かりが見える。
荷袋を置くと、中身の大半を占める銭貨がじゃらじゃらと大きな音を立てる。
「……」
人生のうまく行ってる時期を山、調子が悪い時期を谷とするあの比喩にならえば、俺はガキの頃に転げ落ちた暗い谷を這い上がり、いよいよ日が差し込む場所へ足を踏み入れるところのはずだ。
こんな俺にも、世界に幸せと不幸があるなんて知る必要すら無い黄金時代があった。それが、十歳の時に母さんが災害で死んだ日から何かが狂いはじめた。あれよあれよという間に谷を転げ落ち、気付くと十四歳で天涯孤独の身になり、その後は汚い荒仕事にどっぷりと手を染め、戦時中でもないのに三人も殺していた。殺した相手はクズばかりだったが、だから死んで当然だと言い切れるほど、俺はイカれてはいない。
でも、生きようともがいた甲斐はあった。ラガンでは婚約者のシラが俺の帰りを待っている。親友のネデルは俺たちの結婚を祝う絵を描いている真っ最中だ。谷底でうずくまっている時には、自分もまた何かを得られるなんて想像すらできなかった。俺は決して頭脳派ではないが、ガキの想像力で「人生終わりだ」なんて行く末を決めつけなかった判断だけは、賢かったらしい。
ロヤが「ぶるる」と唇を鳴らす。ロヤにも随分と世話になってきた。獣だが、俺にとっては師であり、友であり、弟のような存在だ。
「今回の仕事で大分金も貯まったし、もう少し真っ当な仕事を探すよ」
「ぶぅっ」
「今までお前を散々こき使ってきたが、そろそろ楽をさせてやれる。それまで俺に愛想を尽かすなよ、ロヤ」
ロヤが顎で軽く俺の肩をつつく。労獣は忍耐と持久力に優れた賢い獣だが、その分気位が高くて気難しく、俺ほど労獣と深い絆を結ぶのは結構珍しいことらしい。
「さっさと寝るか。明日は日の出と共に行動開始だ。ロヤ、荷物を降ろしてやるからしゃがめ」
その時、ロヤの表情が強張る。
「何だ? 這狼でも出やがったか?」
ロヤが「ぶひっ!」と威嚇した時には俺も既に槍を構えている。だが、周囲に気配は無い。
(いや、違う!)
修羅場で磨いてきた勘が、目線をラガンの方角へ向けさせる。
(何だアレは?)
ラガンから北に少し離れた森の中から、光の柱が上がっている。光は赤、瑠璃、翡翠と妖しく色を変えながら天へとのびていく。ラガンで生まれ育って二十一年になるが、あんなものは初めてみる。だが、ロヤが遠くの光ごときに怯えるとは考えづらい。ロヤを恐れさせたものの正体を必死で探す。
その時、今まで空を覆っていた雲が途切れ、青の大月がその姿を晒す。青白い光が、遠く南の空を北上する巨大な「何か」の影を森に落としている。
(嘘だろ……あいつは……)
恐怖で取り落としかけた槍を必死で掴みなおす。姿かたちははっきりと見えないが、あの影の正体は一つしか考えられない。あの巨躯で、あれほどの速さで飛べる妖が、そう何種類もいるはずがない。
「骸禍天……」
その名が口から零れる。ヤツの羽ばたきの音がここまで届き始める。
十一年前、ラガンから四カロコーム(※距離の単位。一カロコーム≒一キロメートル)西に離れた場所に、ダラカという大きな集落があった。俺が十歳の誕生日を迎えた日、骸禍天がダラカの上空を、文字通り目にもとまらぬ速さで通過した。その結果、ダラカは無惨に消し飛んだ。余波はラガンにまで届き、家屋の倒壊に巻き込まれて母さんが死んだ。
後で調査に来た古生物学者によると、骸禍天は数百年周期で縄張りを変えるため、次の縄張りを探すために移動していた可能性が高いらしい。この事件は今では「ダラカの風禍」と呼ばれている。
(何で……どうして、またあいつが……?)
理由はわからない。確実なことは、羽ばたきで地面ごと森を吹き飛ばしながら驀進する骸禍天の進行方向に、ラガンがあることだ。このままだと間違いなく上空を通過する。俺は松明も灯けず、ラガンへ走り出した。
(手遅れだ。ラガンが消し飛ぶまでもう数分もかからない。俺が行って何ができる?)
そんな問いを振り払うように必死で走る。わかってる。俺が着く頃には全てが終わっていて、骸禍天はどこぞへと飛び去っているだろう。だからといって、再び起きようとしているあの悲劇をここで指をくわえて眺めるなど、耐えられる気がしない。
「やめろ、やめろ! やめてくれぇっ!」
叫び声が森に溶けて消える。ラガン。チヤレ県でもあまり名を知られていない小さな集落だが、俺の半生の全てがそこにある。
「あっ」
骸禍天がラガン上空を通り過ぎ、あの光の出所に着陸するやいなや、狂ったように大暴れし始める。立ち込める砂塵の向こうから、足を踏み鳴らす振動が、翼を叩きつける音が、やつが吐く紫炎の光が、ここまで届いてくる。光の柱が消えるのに、そう時間はかからなかった。
「ごおぉおぉぉぉ……」
骸禍天の咆哮。この距離でも、やつの激情が腹まで響く。あの光はやつの怒りを搔き立てるものだったのだろうか?
砂塵が吹き飛び、骸禍天が矢のように空へ飛び立つ。ヤツは竜巻のように地表を抉りながら、元来た方角へ帰っていく。巨体が視界から消えるまであっという間だった。
(……終わった)
あまりにあっけなく、ラガンは滅んだ。俺は故郷が消えてなくなるのを遠くから眺めることしかできなかった。