あまりにあっという間の出来事だったせいか、ラガンが消し飛んだことを現実として受け入れられない。
だが、帰れば現実が待っている。半生の残骸を目の当たりにすることに、俺は耐えられるか? また暗い谷底に転げ落ち、俺の為すことは何もかも無意味、無価値だと、今度こそ立ち上がれなくならないか? ラガンには二度と戻らず、「あれはただの悪夢だ」と自分に言い聞かせ続ければ、全てを無かったことにできやしないか?
日が昇るまで立ちすくんでいた俺の肩に、ロヤが「ぷぎーっ!」と抗議の声をあげながら角の側面をこすり付けてくる。わかっている。行くべきかどうかなんて、悩む方がどうかしている。問題は、俺に現実を直視する覚悟があるかどうかだけだ。
シラお手製の木彫りのお守りを握りしめ、鬱々とした気持ちでラガンへ向かう。待ち受けるものへの恐怖で足取りは遅いが、それでも四半日とかからずラガン、いや、もはや「ラガン跡地」とでも呼ぶべき場所に着いてしまう。
「……」
圧倒的な破壊の痕跡。骸禍天が通過した軌跡に沿って森が地面ごと消失している。家屋の破片、ひしゃげた鍋や硝子片、獣除けの石垣の残骸が、ここがラガンだったことを弱々しく主張している。「生存者はいるか?」なんて疑問が湧く余地なんてない。皆殺しだ。ダラカの風禍の経験があるので、現場がこうなっているのは想像がついていた。歩きながら、せめてシラやネデルの遺体、あるいは遺品だけでも探し出すと覚悟を決めたつもりだったが――
「うぅ……ああぁ……」
そんなものは全て無意味だった。感情の奔流があらゆる意志を押し流し、迷子になった意気地なしのガキのように泣きわめくことしかできない。
その時、ロヤが唐突に「ぶひっ、ぶひっ!」という甲高い威嚇音を発した。
「な、なんだ!?」
涙がピタリと止まる。手は既に槍を握り、目線を周囲に走らせている。無意識の、ほとんど反射的な行動だ。
俺は闘い、要するに暴力で飯を食ってきた人間だ。
十四歳で天涯孤独の身となった俺は、恵まれた体格を活かせる仕事を探した。紆余曲折を経て、サボタージュのためなら未成年に仕事を押し付けることもためらわない腐敗役人と知り合い、県公認の娼館の用心棒の仕事を得た。職員に呼ばれればすぐに駆け付け、金払いを渋るバカ、避妊薬を飲まないカス、性病予防剤を塗らないゴミ、娼婦に無茶をするクズを、無抵抗になるまで殴った。腕っぷしと度胸が認められると、金のためにもっと危険な相手をぶちのめした。敵は全裸の不良客から、非公認の娼館を運営するゴロツキ、娼館全面禁止の悲願のためなら殺しもいとわない娼館解体同盟の過激派と、危険を増すばかりだった。だけど、俺は必ず生き延び、最後には勝ってきた。
(死なない……俺は、生きる……)
何もかも失ったのに、俺の経験が、勝利の記憶が、肉体が、精神が、泣きながら無抵抗で死ぬことを許してくれない。しみったれた感情が鎮まり、その分だけ闘争心が、生への意志が湧き上がってくる。「目の前の危機に対処し生き延びろ」と、全身に指令が下る。
「ハッ、ハッ」という興奮した肉食獣の声が迫ってくる。
(この声と臭い……這狼か)
突然、左右の茂みから、腰の高さほどの真っ黒な獣が同時攻撃をしかけてくる。予想通り、這狼だ。右のやつの顔面を石突で破壊し、返す一撃で左の脳天を貫く。
這狼は森の浅い領域に生息する肉食獣の一種で、長い手足で這うような走り方と、獲物を地面に引きずり倒して地面を這わせるのが得意なことが、名前の由来らしい。成獣でも背丈はせいぜい一チェコームで、足もそこまで早くないが、咬合力が異様に強く、集団での狩猟能力は他の獣の追随を許さない。浅い森では間違いなく最強の狩人だ。
森の奥から「ヴロロッ」と、這狼が仲間を呼び集める独特の遠吠えが聞こえてくる。骸禍天が滅ぼした人里に死肉漁りにでも来ていたのかもしれない。遠吠えの数が、敵が大規模な群れだと教えてくれる。多勢に無勢だ。
「逃げるぞ、ロヤ!」
荷を捨ててロヤを身軽にすると、西の川に向けて走り出す。這狼は泳げないので水深がある川を渡れば追って来ないが、目当ての川まで三カロコームはある。逃げ切れるかは微妙なところだ。
追いすがる這狼を返り討ちにしながら走る。一カロコームも走っていないが、既に俺もロヤも傷を負い、かなり出血している。息が苦しい。長旅の疲れもあるが、ラガン消滅の事実が全身に重りのようにのしかかっている。ロヤも舌を出して疲れを訴えるが、「持ちこたえろ!」と走らせ続ける。這狼は複数の獲物を追う時、仕留められそうな獲物を優先して集中攻撃し、確実に仕留めにかかる。足を止めればあっという間に集られ、連中の胃袋に直行だ。
道が下り坂に差し掛かる。この坂の先が川だが、行く手を四頭の這狼が阻む。ロヤの嘶きで振り返ると、背後の茂みからさらに三頭。完璧な待ち伏せだ。
「ロヤ! 前だ! 覚悟を決めろ!」
だが、ロヤは俺の曳く手を振り切り、後ろの群れに向かって突撃する。
「ロヤ!?」
ロヤは凄まじい気迫で這狼の一頭にのしかかり、骨を踏み砕こうと地団太を踏んでいる。だが、すぐに他の這狼に地面に引きずり倒される。止めをさすために、前方の四頭までもがロヤに殺到する。牙が、爪が、ロヤの肉を引き裂き、血が噴き出す。
「離れろ!」
ロヤはもう助からない。それでも一頭でも這狼を引きはがそうと槍を振り回す。ロヤはもがき苦しんでいたが、突然喉奥で「うぉっ、うぉっ」と声をあげ始める。労獣が仲間に最も強い抗議の意を表す時の発声だ。
労獣は賢く、絆を結んだ人間には忠義深い。人間の言葉を解するばかりか、人間に自身の意志を理解させる方法を編み出すことすらある。ロヤは間もなく終わる命で、俺にまっすぐな目線を向けている。助けなど望んでいない。最後の忠誠を果たそうとしている、まなざし。
「ロヤ……今まで世話になった! ありがとう! 必ず生き延びる!」
俺はロヤに背を向け、川へ走り出した。
「はぁ、はぁ……」
足が重い。あれからも襲われ続け、血みどろになっている。川の流れがもう目に見え始めているが、五頭の這狼が道の先で待ち受け、遠吠えで仲間を呼んでいる。
「どけ!」
時間は俺に味方しない。最後の力を振り絞って強行突破しようとするが、ついに槍を奪われ、地面に引きずり倒される。体を丸めて急所を庇うが、全身のありとあらゆる箇所にやつらの牙が食い込んでいく。
(クソが……)
打つ手がない。これが人間だ。いくら鍛えたところで、強い奴に狙われれば何もできずに死ぬ。俺にできるのは、急所を晒して楽になる誘惑に死ぬまで耐え、ロヤへの義理を果たすことくらいだ。シラのお守りを握りしめ、終わりがくるのをひたすら耐えて待つ。運が良いのか悪いのか、血の流し過ぎで苦痛はすぐに遠のき始めた。
(ロヤ……ネデル……シラ……)
奪われ、汚い仕事に手を染め、最後は獣に貪り食われる。見本通りのクソみたいな人生だ。せめてもの救いは、最後に想っていることが恨み言ではなく、友と婚約者のことであることだけ。やっと、終われる。そう思った時、
「それ、私の――」
女の声が聞こえた気がした――