信頼できる歴史的資料を参照するに、少なくとも一世紀前には、大陸のおおよそ北半分が人間の領域、残りの半分が妖の領域と住みわけられていたらしい。二つの領域の境界は時に侵されはしたものの――その大半は妖の侵攻であった――人類は長期的に見ると、文明の発展に十分な広さの領域を保ち続けてきたのである。
今日、その人間の領域のほぼ東半分を、テナ人の国であるテナチ王国が治めている。気候は温暖。山河は大きく、湖沼は広く、森は深く、地形は険阻。土地は「地面を掘り返して種を撒けば畑になる」と言われるほど肥沃であり、地政学ではよく天然の要塞、不落の野城と表現される国である。
そのテナチ王国の南端、より正確に言うとヤマ州イギ県の広大な森の南端に、アバドンという集落がある。辺境の集落ではあるが、他地域でも需要がある特産品がいくつかあり、雰囲気は豊かで開放的である。アバドンの人々は厳しい自然と渡り合って恵みを得、時に敗れて身命を失う。それもまた自然の摂理と受け入れ、噂話、季節の変わり目の祭り、たまに訪れる商人や他所に出かけた身内が持ち帰ってくる土産話を楽しみに日々を過ごす。テナチ王国の庶民の典型的な日常が、アバドンにもあった。
そんな日常の終わりを告げに訪れたのは、急ぎ足の軍馬の一団だった。
「アバドンの人々よ。我々は州軍の郷土防衛隊である。長は誰か? 緊急事態だ。今すぐ全員を集めてほしい」
指揮官と見える男が丁寧な、しかし拒否を許さない意志を込めた声で、高々と叫ぶ。その声に「私が長です」と落ち着いて答えたのは、三十代半ばの長身痩躯の男、名前はコイと言う。顔には常に微笑をたたえ、一見すると柔和だが少々頼りなさげに見える。だが実際は心身壮健、責任感が強く公明正大な人柄で慕われている。十日前に天寿を全うした前任の長より後継に推され、満場一致に近い支持を得て就任したばかりの男である。
コイの段取りで人々に効率的に状況が伝わり、集落の広場は短い時間で住民で一杯になる。指揮官は一瞬何かをためらう表情を浮かべたが、意を決して話し始めた。
「我々は人間の領域と妖の領域の境界を防衛していたが、三日前に未知の妖に襲撃され、四人に一人が死ぬ被害が出た。つい先日、州は防衛線を大きく北に後退させることを決定した。つまり、イギ県南部の集落は全て放棄される。二日後に護送部隊が来るので、諸君はそれまでに旅の準備を整え、部隊の指示に従って北へ移住してほしい」
要するに、故郷を捨てるか、残って妖の餌食になるかを選べということであった。旅の支度の時間を考えると、即決を求められていると言ってよい。青天の霹靂だが、コイに迷いはなかった。
(俺はアバドンに残るぞ)
コイには強い郷土愛がある。アバドンと運命を共にすることを望む者たちに最期まで添い遂げようという使命感もある。長に選ばれたのに逃げたくないという意地もある。だが、最大の理由は一人娘のソンである。
ソンは病で夭折した妻セイナの忘れ形見である。生来病弱で、生まれてすぐ五歳までは生きられないと予言されたが、優れた薬師であるコイの技量により九年を生きている。半生の多くを病床に伏して過ごしてきたソンだが、ここ最近特に容体が悪い。無理に慣れない土地に移せば、それだけで死にかねなかった。
「移住者には州が手厚く生活再建を補助する。全員に移住してほしいが、強制はしない。故郷で終わりを迎えることを願うなら止めはしない」
二日後、州は予定通りに護送部隊をアバドンに派遣した。アバドンのおよそ五人に四人が護送部隊と共に北へ旅立ち、残りは故郷を選んだ。護送部隊はせめてもの厚意に、貴重な妖除けの香木を置いて行った。コイは移住者たちを見送った後、残った者達を集めて簡単な演説を行った。
「アバドンが私達の代でお終いなのは、どうしようもなく悲しいことです。だが、何事も始まりがあるなら終わりもあるものです。そこに文句を言っても、仕方がないじゃないですか。アバドンは、最後までアバドンらしく行きましょう。冬入り前の祭りは予定通り開催するので、皆さん力を合わせて準備を進めていきましょう!」
コイを見つめる顔、顔、顔。先が無い者たちだが、覚悟と諦念から穏やかな表情を浮かべている者が多い。誰かが「今この時、アバドンの長がコイなのは唯一の幸運だったな」と言い、多くの者が深く頷いた。コイは長として、アバドンが滅びるその日まで彼らを率いることを改めて決断した。
「帰ろうか、ソン」
「うん」
ソンをおんぶして家路に着く。ソンは年齢の割に背が高いが痩せており、とにかく体重が軽い。意識を集中すると服越しに彼女のあばら骨の隆起が感じられる。
「今日はお声様は何か言ってた?」
「寒くなるから、寝る前に白湯を飲んでって」
ソンにはお声様という想像上の友人がいる。お声様は常にソンを励まし、体調を気遣い、病気からの回復を願い、ソンが行ったことがない山の動物や花の話をしてくれる。同世代と遊んだ経験が少ないソンにとって、お声様は家族の次に大事な友人である。
「お声様は他に何か言ってなかった?」
「赤い花を見かけたら近づかないでって言ってた」
「赤い花?」
「うん。普通の花とは違ってて、危ないんだって」
「お声様がそういうなら、マズい花なんだろうねぇ。毒があるとか、匂いに引き寄せられて危ない虫や獣が寄ってくるとか……」
「父さんも気を付けて」
「そうだね。油断大敵だ」
アバドンにもソンにも残された日は少ないが、その滅びは少しでも穏やかなものであってほしいし、自分がそうさせなければならない。コイは腹を括った。