2話 山送り

 郷土防衛隊は州軍の一組織であり、その使命は妖の脅威からテナ人を保護することである。州が防衛線を下げることを決めた後も、一目散に逃げ出したわけではない。むしろイギ県南部の住民が避難する時間を一秒でも稼ぐため、決死の遅滞戦を繰り広げ続けている。
 そのお陰か、アバドンに残った人々はしばらく穏やかな日々を過ごすことができた。例年通り畑から秋の作物を収穫し、冬入り前の祭りを催し、冬野菜の種を撒く。こんな日常をまだ続けられるのだと、多くの者が信じていた。
 だが、冬入り後間もなく郷土防衛隊の撤退が完了する。それはつまり、アバドンの平穏もそこまでということだった。

 夕暮れのアバドン。普通の鳥や獣の声とは違う、「うぅん……うぅん……」という人間の唸り声に似た響きがある。てんという巨大な獣の姿をした人食いの妖の声である。
「ソン。父さんが良いと言うまで耳を塞いでいるんだよ」
 ソンを布団に押し込みながらコイ自身も耳を塞ぐ。唸の声を聞きすぎた者は強烈な自殺衝動に支配され、自ら唸の元へ行ってしまう。アバドンでは既に二名の犠牲者が出ている。
 翼虎よっこという妖も目撃され始めている。翼虎は唸を一撃で撲殺する怪力で、皮膚は猟具を跳ね返すほど強靭であり、心臓さえ無事なら頭部を切断しても餓死するまで動き続ける生命力を持つ。人間に太刀打ちできる相手ではない。極端な偏食で個体毎に好む肉が異なり、興味がない生物には目もくれないらしいが、人肉を好む個体が現れればアバドンはお終いだろう。

 唸や翼虎も重大な脅威だが、それ以上の問題がある。食糧難だ。妖の急増によりアバドンの住民の行動範囲は狭くなる一方である。コイの幼馴染であるの猟師のリウは、山で運悪く六牙りくがという妖に出くわし、利き腕を食われて帰ってきた。一命は取り留めたが、六牙の毒により四肢に障害が残った。コイの薬で延命するのが精一杯で、回復の見込みは全くない。
 畑も、軍が残していった妖除けの内側の畑は安全だが、アバドンの畑の多くは妖除けの外にある。外の畑は早くも唸の巡回ルートになっており、放棄せざるを得ない。妖除けは見た目は黒い木材でできた単なる柵のようだが、軍でなければ入手困難な貴重な材料が使われており、アバドンの独力で妖除けを広げることはできないのだ。
 アバドンは本来、季節に限らず山河の恵み豊かな豊食の地である。不作への備えは少なく、住民を全員食わせられるか不安が大きい。そこでコイは、セイナの弟で秘書でもあるデンと共に、アバドンの食料事情を洗いだした。
義兄にいさん、駄目だ。何度計算しても食い物が足りない」
 巨漢のデンが滑稽なほどのひそひそ声でコイに悪報を伝える。
「いつ、どの程度足りなくなりますか?」
「備蓄を使い果たしても、冬明けに十五の家で合わせて二十人分の食料が不足する」
「そうですか」
「どうする?」
「山送りをするしかないですね」
 「山送り」はテナ人の言葉で、二つの意味を表す。一つは、猟師や薬師といった山仕事を志す若者が数日、長い場合は数週間の山中サバイバルに挑み、自身が一人前であることを証明する通過儀礼を指す。もう一つの意味は口減らし。扶養しきれない者を間引き、食料の消費を抑えることである。これを山送りと呼ぶのは、間引いた者を山に遺棄する地域で使われ始めた表現だからである。
「だ、誰を選ぶ……どうやって?」
「アバドンの役に立てない者を選びます」
「そ、そんな……」
 普段は冷静なデンが表情を青くする。山送りをしなければならないことへの恐怖だけが原因ではない。デンの家も食料が不足する見込みで、しかもデンの母ソハンは重病を患いここ数年寝たきりなのだ。
「やり方は私が、私の責任で決めます」
 コイはいつも通りの落ち着いた口調で述べ、デンを帰らせた。

 コイは次の日から、食料不足が見込まれる十五の家々を訪ねて回り始めた。家長に家人の役割や健康状態を聞き出し、住民が日々何をして過ごしているのかを改めて把握しなおす。そして去る時に、必ずこういう事を言い残していくのだ。
「畑の世話はできない。山に食べ物を採りに行くこともできない。しばらくは芋の一欠片、果物の皮も惜しまないといけませんね」
 当たり前のことだが、アバドンにはコイとデン以外は馬鹿しかいないわけではない。食糧難を予感している者は他にもいて、コイのこの一言は予感を確信に変える。だが、家長もコイもはっきりしたことは決して言わない。食糧難に対処する方法など、言うまでもなければ、言うべきでもないからだ。
 その日、コイは日課の訪問を終え、夕方前に家に帰った。表情は穏やかだが、内心は苦悩の嵐である。
(山送り……二十人も! よりにもよって、俺が長をしている時に……)
 参りそうになるが、持ち前の精神力で堪える。顔にはいつもの微笑を浮かべながら、頭の中ではどうすれば犠牲無くこの苦境を乗り越えられるのかと、狂いそうになりながら知恵を絞る。だが、考えれば考えるほど、食う口の数より食料が少ない現実が重くのしかかる。コイは人付き合いが減り、毎晩夜遅くまで薬の調合に没頭するようになった。調合しているのは睡眠薬だが、異様に大量に作り溜めている。

 コイは二十代のころ、同朋への奉仕として郷土防衛隊に千日間従軍したことがある。若くして敏腕薬師の名を得ていたコイは、郷土防衛隊に傷薬の代わりになる植物の見分け方、加工方法を指導する予定だった。だが、タイミング悪く六牙の大群が前線を突破し、コイが詰めていたドウエイという守備拠点を包囲した。ドウエイは何年も昔に放棄された集落を再利用した小規模な拠点で、お世辞にも堅牢とは言い難い。コイは遺言書を書いてこなかったことを深く後悔した。
 ドウエイの守備隊を指揮するのはムボという男だった。ムボは怯える部下を鼓舞し、時に自らが出撃して大槍を振るい、六牙を何頭も仕留めてドウエイに凱旋した。コイもムボの威風に感化され、兵と一緒に石ころやら壊れた荷車の破片やらを六牙に投げつけまくった。
 ある日、騎馬の小隊が六牙に返り討ちに遭った。小隊は馬を奪われ、ドウエイに帰還できなくなった。ムボは小隊を救出するために無謀な突撃を試み、結果、助けた人数よりも多くの重傷者を出す悲惨なあり様となった。ドウエイには薬も治療者も足りず、重傷者を全員救うことは到底不可能だった。
「幼子がいる者、老いた親がいる者、若い者を優先しろ! 俺の治療は最後で良い!」
 そう命じると、ムボは気を失った。コイは「それは間違いだ」と叫んだが、兵は指揮系統に従うものである。既に手遅れの若い兵士の治療に薬と人手が集中投下され、急げば助かるはずだった老兵は見殺しにされた。やがて他の拠点から援軍が駆け付けドウエイは解放されたが、ムボも六牙の毒で間もなく殉職した。
 コイは武勇に優れ情に深いムボを心の底から敬愛していた。だがそれと同時に、ムボは極限状況下で長にしてはならない人物であることを悟った。コイは仁愛こそ最上の人徳だと深く信じていたし、ドウエイの経験を経てもそれは変わらない。だが、仁愛を重んじるあまり人品の評価が歪んでいたことを認めざるを得なくなった。ムボが下すべきだった判断は、騎馬の小隊を見捨てることだったのだ。仁に惑えば柔弱であり、愛に溺れれば暗愚である。集団の命に責任を負う者は、非情の選択だけが未来に繋がる時を悟り、業を背負わなければならない。コイはそのことを、ムボを止められなかった罪悪感と共に肝に銘じた。

(俺は長だ。公正無私の怪物と化し、誰を切り捨てるのかを選ばなければならない。俺が業から逃げては、アバドンは崩壊する……)
 コイは自分の企みの恐ろしさに嗚咽おえつを漏らしかける。だが、いつの間にか起きていたソンが不思議そうな表情でこちらを見つめていることに気付き、寸前で飲み込んだ。
「父さん、泣いてるの?」
「うん。……帰ってくる途中にさいちょうが飛んでいるのを見かけてね。彩華鳥、知ってる? 虹色の羽根を持つ珍しい鳥なんだけど、あまりの綺麗さに感動しちゃってね」
「……ふぅん。そうなんだ」
「今度ソンも一緒に探しに行ってみようか。ところで、今日もお声様とお話したのかい?」
「うん!」
 ソンが上機嫌な声を上げる。
「お声様が言ってたの。もうすぐ会えるよって――」