人々が、コイを見つめている。リウ、デン、ソハン、コイに薬を渡された者たち、それを盛られた者たち。みな怒りの表情を浮かべ、コイに抗議の声をあげている。「なぜ自分を選んだ」「よくも薬を盛ったな」と。
「悪かったと思っています。アバドンを滅ぼさないためには誰かを犠牲にするしかありませんでした。他の手があれば、決してしませんでした」
コイは自分が下した決断を、無表情に淡々と説明するばかりである。
ソン、そして八年前に病で夭折した妻セイナが現れる。二人の険しい表情を認め、コイの表情が恐怖で強張る。だが、その時――
「お父さん、朝だよ!」
明るい声がコイを悪夢から覚醒させる。コイが目を覚ますと、朝日が部屋に差し込んでいる。室内は食欲をそそる香りに包まれている。
「……んん? ああ、お早う――」
コイが目を見開く。コイを起こしたのはソンだった。
「……ソン?」
「精がつくように魚をとってきたからね」
ソンは慣れない手つきで串に刺した数匹の魚を囲炉裏の炎であぶっている。コイは寝不足の頭を必死に働かせる。昨夜、ソンは致死量の薬を飲み干したはずだった。大人でも確実に死ぬ量を。それにも関わらずソンは生きている。
(ん? 魚だと?)
コイの家に魚の保存は無かった。そもそも魚が獲れる川は妖除けから離れた場所にある上に、未知の妖が住みついていて、とてもではないが猟など行えない状況にある。
「はい、できたよ! はらわたを取り忘れたから気を付けてたべてね」
ソンはコイに焼き魚を手渡すと、むしゃむしゃと自分の分を食べ始める。コイは彼女の呼気に花のような香りを感じた。
(もしや、妖がソンに化けているのか?)
家族すら見分けがつかないほど精巧に外見を真似られる妖も、内臓は外見ほど上手には似せられない。だから妖の呼気や体液は人間とは違う匂いがする。コイはそんな民間伝承を思い出していた。それに、ソンは自分を大人っぽく見せるためにコイのことを「父さん」と呼ぶ。コイは覚悟を決め、問うた。
「……ソンではないな。何者だ?」
「私はお声様だよ」
「えっ? そんな、まさか」
あっさりと正体を明かされ、かえって面食らうコイ。お声様は魚を美味しそうに頬張りながら話し続ける。
「空想の存在だと思われていたのかな?」
「妖除けが……いや、それよりも、ソンはどうなった?」
「ソンは死んだよ」
ソンの姿と声で、お声様があっけらかんと答える。
「ソンは私に体をくれたから、私はお礼にソンの願い事を叶える。ソンとはそういう契約を結んだ。ソンには『お父さんが長の仕事で苦労せずに済むように助けてほしい』と頼まれているんだ」
「ソンが……そんなことを?」
コイを酷い眩暈が襲う。
(俺はソンに薬を盛ったんだぞ。そんな俺のために、ソンは得体の知れない妖に命を捧げたのか? もう嫌だ……誰か、俺を殺してくれ……)
コイは苦しみのあまり気を失う寸前だが、お声様は彼のそんな心情を察することなく残りの焼き魚を全て食べてしまった。
食事を終えるとお声様はコイを外に連れ出し、赤い花を見に行った。赤い花は季節を知らないかのように今も咲き続けている。お声様はその内の一輪を摘み、香りを楽しんでいる。少女に花。事情を知らない者には心安らぐ絵に見えるだろう。
「お父さんはこの花についてどれだけ知っているの?」
お声様が唐突にコイに尋ねる。
「異常な花だということ以外は、何も」
「これは多分、赤曳が来る前触れだね」
「赤曳?」
「新しい畑は全滅?」
「ああ。昔からある畑は無事だが、それ以外は赤い花に乗っ取られたよ」
「古い畑は加護が強いから無事だったんだろうね。確かめたいことがあるから、あっちに行ってみよう」
お声様はコイには理解できないことを呟きながら、漠然と南の方角を指した。
お声様はコイを妖除けの外に連れ出したが、妖除けを越える時に全身にヒビのような傷を負った。妖除けの効力である。だが、妖除けから離れるとヒビは跡形もなく塞がる。コイはお声様が強大な妖だと薄々察していたが、この様子を見てそれが確信に変わる。並の妖は妖除けを越えられないばかりか、接近することすらできないのだ。実際、アバドン付近では妖除けに接近しすぎて死んだ唸の遺骸が見つかることがある。
「お前は何者なんだ?」
「お声様としか名乗りようがないかな。本当の名前はとっくの昔に失っているからね。神々に気まぐれで生み出された存在だと言えば、お父さんには通じるかな?」
「そんなに古い存在か」
大陸で語られる神話の一つに残世譚というものがある。
はるか昔、この星には数多くの神々が住んでいた。神々の強大な言霊は世界を従え、命じるだけで天変地異が起きた。神々は矮小な生物から、あるいは山や巨木といった自然物から、超常の怪物を生み出して戦わせる遊びに興じた。勝手気ままな遊びに巻き込まれ、無数の命が生まれ、そして滅んだ。
そんな神々の中に、生命を憐れむ変わり者の一柱が在った。この一柱は神々を連れて異界へと去り、戻れぬよう元来た道を塞いだ。これ以降、神々が住まう世界は「水外の世」、神々が去った世界は「水内の世」と呼ばれるようになる。妖のような超常の存在の系譜をたどると、神々が戯れに創造し水内の世に置いていった何者かに行きつく。これが残世譚の概要である。
「私自身、長く生きすぎて自分が何者かなんてもうわからないんだ。でも、少なくともお父さんの味方だ」
「お前が味方かは俺が決める。だけど、お前に敵意はないことはわかる。お前が俺達を滅ぼすつもりなら、味方のフリをして欺くような遠回しな手を使う必要は無い。人間が足元の害虫を踏み潰すように、さっさと片付ければいいだけだ」
「人間と話すのは久しぶりだけど、こんなに話が通じると思ってなかったよ」
お声様はコイの反応が気に入ったらしく、機嫌が良くなる。
お声様は森の何もない場所にコイを連れて行った。そして「ここからなら良く見えるかな」と呟き、コイを抱え上げて一番高い木に登り始めた。垂直な木を、平地を歩むかのようにすたすたと歩いて登るのだ。
「お父さん、あれを見て」
お声様が南を指す。本来なら川を挟んでだだっ広い緑の野が広がっているはずだが、川の向こうの地は赤一色に染まっている。
「あの花だよ。あれがずーっと向こうまで咲いているんだ」
「お前が赤曳と呼んだ妖の仕業か?」
「うん。赤曳は私より大きな力を持つ妖だ。この様子だと、次の満月を待たずにアバドンにやってくるね」
「それほど強大な妖がアバドンに……」
お声様は平然としているが、コイにとっては死の宣告である。お声様をも上回る妖の襲来など、もはや自然災害に近い。
「お父さん、諦めるのはまだ早いよ」
お声様の優しい声に、コイは不覚にも希望を見出す。だが――
「私は生贄を喰らって力を得ることができる。私に五十人くれたら、お父さんが生きている間は赤曳がアバドンに手を出せないほど強力な結界を作ってあげるよ」
そう言うと、お声様はコイを安心させるためか、愛らしい笑みを浮かべてみせた。