青の大月と白の小月が天高くに輝く晴れた満月の深夜。窓から差し込む月明かりがコイの家の中を照らす。部屋では二人が倒れている。コイは床の上で、歯を食いしばった苦悶の表情でうわごとを呟いている。ソンは布団に寝転がり、静かに目を閉じ、息をしていない。
部屋の隅には空になった薬筒が転がっている。
コイはやり抜いた。他人にやれと強いたことを自身にも課し、言い訳をせずに遂行したのだ。そして苦悩のあまり意識を失ったのである。
コイの恐るべき所業とは裏腹に、今宵のアバドンは平和そのものである。いつもの唸が獲物をおびき寄せる唸り声が、なぜか無い。ごくまれに、平凡な夜の鳥ののんきな「ほぅほぅ」という泣き声が遠くから響くばかりである。
「……ん?」
その時、突然ソンが目を覚ました。致死量の睡眠薬を飲み干したはずの、ソンが。
【ソン。気分はどうだい?】
ソンにだけ聞こえる声で語りかける者が在る。声が低い女、あるいは声変わり間近の青少年の声のようにも聞こえる、優しく透き通った声音である。
(なんか、ものすごく気持ち悪い)
ソンが当然のように心の中で唱える。表情に驚きはない。
【しんどいかもしれないけど、今は頑張ってほしい】
(わかってる! すぐにお声様のところに行くから!)
お声様。コイの次に励ましの言葉を多く投げかけてくれた、絶対の友人。
誕生日の数日前、ソンはお声様に夢で二つのことを告げられた。ソンが十歳になる日の夜中に会えること。もしも父親に見覚えのない薬を飲むように言われたら、父親に内緒で一緒に飲んでほしい薬があること。ソンが目を覚ますと、枕元に見覚えの無い丸薬が転がっていた。ソンはその薬を隠し持ち、コイがソンに例の睡眠薬を飲ませた時、お声様に言われた通りに一緒に飲み下した。ソンには知る由もないが、丸薬はコイが調合した睡眠薬を無効にするものだった。
【道は私が案内するからね】
(待って。お声様は妖除けの外にいるんだよね?)
【大丈夫。私がついているから妖はソンに近づかないよ】
(すごっ。じゃあ行くね)
ソンが草履を履いて外へ飛び出すと、月明かりよりも白くはっきりした光がソンが進むべき道筋を示している。ソンは精一杯の速さで歩み始めた。
住宅地を超え、妖除けの柵を潜り抜け、さらにその先へ。光の道しるべは、妖が境界を侵す前の平和だったころ、アバドンの人々が山菜を採りによく行っていた山に続いている。人々が行き来していた道は藪に埋もれ始めているが、光はソンが迷わずに済むほどの明るさで行く先を示し続けている。ソンは乏しい体力を振り絞り、汗だくになりながら進む。
ふと、強烈な獣臭がソンの鼻孔をくすぐる。そして藪をかき分けた瞬間、見上げるほどの巨大な獣と鉢合わせになる。獣の身の丈はソンの家の高さとそう変わらない。光に照らされた全身は暗い青緑色の毛で覆われている。顔は頭部から生えた異様に長い白髪に隠れてよく見えないが、大きな口には仕留めたばかりの鹿の成獣を咥え、白髪に血を滴らせている。
【こいつはソンたちが唸と呼んでいるやつだね。私がついているから大丈夫だよ】
お声様が言う通り、唸はソンの存在を認めると鹿を投げ捨てて一目散に逃げ出した。
【私の居場所までもうひとがんばりだよ。滝の音が聞こえる?】
(聞こえる)
【私はそこにいる】
白光と滝の音に導かれ、ソンが小走りになる。
(何だかいい気分)
ソンが自分の足でこれほどの遠出をするのは初めてのことだった。自分の足で出歩けるのは家の周りがせいぜいで、遠くに行く時はいつもコイに背負われていた。野を駆けたこともない。運動不足の体はあっという間に限界を訴え始めるが、ソンはすがすがしい気分だった。
やがて光の道しるべが途切れる。ソンは用意されたかのような切り株に腰を下ろして体を休める。数歩先で川が月を映して輝いている。
【よく来たね、ソン】
(早く出てきてよ)
【私が姿を見せるには色々と段取りが必要なんだ】
(段取り?)
【うん。全部説明するよ】
滝つぼが近くにあるらしく、空気が冷たい水気を帯びている。ざぁざぁと大きな水音が響くが、お声様の声は何にも遮られることなくソンの内側に響く。
【気付いているだろうけど、私は妖だ。ソンたちが怖がっている唸や翼虎よりもずっと大きな力を持っている】
(知ってるよ。アバドンに妖除けができたってお父さんが言ってたのに、お声様には全然効いてないもん)
【ソンには、叶えたいけど叶えられない願い事はあるかい?】
(願い事?)
【これは契約だ。契約ってわかるかな? 私が望むものをソンがくれれば、私はソンの願い事を叶える。そういう約束のことだよ】
(……そういう妖がいるってお父さんに聞いたことあるかも)
【お父さんからはどんな話を聞いたの?】
(えっとね、テナチ王国は大昔に女王様が創った国なんだって。西から偽龍が国を滅ぼしに来たんだけど、女王様が自分の命を山の霊にあげて、そのお礼に山の霊がドラゴンを追い払ってくれたから、今もテナチ王国があるんだって)
【へぇーっ! 面白い話だ】
(お声様は私の命がほしいの?)
【私はソンの体がほしい】
(えっ? なんで?)
ソンが怪訝な表情を浮かべる。ソンは親譲りの賢さの持ち主で、妖であるお声様に会えば予想し得ない何かが起きるとは予想していたが、病魔に侵され年中死にかけている自分の貧弱な体を要求されるのは、さすがに想像を超えていた。
【嫌なら断ってね。体を渡せばソンは死んでしまうから、命をあげるのと一緒だ。私はソンから無理矢理何かを奪うつもりはない】
(わたしの病気を治すのは無理なんだね)
【そうだね。願いを叶えたらどの道ソンは死んでしまうから】
(うーん……)
【願い事が無いならそれでも私は構わない。ソンはもうすぐ死んでしまうけど、私は最期までソンの傍にいる。遺体もお父さんの元に届けてあげよう】
お声様は急かさない。だが、ソンの決断は早かった。
(わたしの体をあげるからお父さんを助けてあげて)
【お父さんを?】
(お父さん、長になってからずっと苦しそうなの。寝言でいつも誰かに謝ってる。『ごめんなさい。悪いのは全部私だから、責めるなら私にして』って)
【そうなんだね】
(お父さんの長の仕事を手伝ってあげて。お父さんが苦しまずに済むようにしてほしい)
ソンはアバドンの人々から「ソンのお父さんほど立派な人はいない」「他所の集落にもソンのお父さんに感謝している人が大勢いるんだよ」と言い聞かされてきた。実際、ソンの家にはイギ県のあらゆる集落、街から届いた感謝の手紙が山ほどあり、ソンはそれを読んで字を学んだほどだった。
ソンから見た父は「いつも誰かのために頑張っている人」だった。病気の人がいるとすぐに薬を調合し、ソンが寝たきりなので家事も一人で済ませ、一日の用事を終えてくたびれてもソンの相手を欠かすことは決してない。父はソンの前ではいつも上機嫌で笑顔だった。長となり、大勢の人々がアバドンを去った、あの日までは。
ソンはアバドンの状況をあまり把握していないが、父の苦しみが長の立場ゆえであることは子供なりに察していた。父が誰にも救われず苦しまなければならないことは、正されるべき間違いだと確信していた。
(他所の家の子供は八歳にもなると家事をしたりして親を助けるの。でも、わたしはこのままだとお父さんに何もしてあげられないまま死んじゃう。お声様ならお父さんを助けられる?)
【それがソンの心からの願いなら。本当にそれで良いのかい?】
(うん。もう決めた――あっ、そうだ、その前に!)
【ん?】
(ねえ、いい加減会えない? わたし、お声様に会うために頑張ってここまで来たんだけど?)
【私の姿は契約相手にしか見えないんだ】
(ええっ!? わたしに願い事がなかったらどうする気だったの!?)
【ごめんよ。契約を結ぼうか】
テレパシーで対話する二人の対話は静かで、周囲は水と風の音ばかりが響いている。
【契約を結ぶには『私の体を捧げます』と五回唱えて川に浸かるだけで良い。無かったことにはできないから、考え直すなら今が最後――】
「わたしの体を捧げます。わたしの体を捧げます。わたしの――」
【……】
「――捧げます。はい、五回!」
ソンは草履を脱ぎ捨てると、月明かりを頼りに膝まで川に浸かった。
(これでいいんだよね?)
お声様の反応はない。
(あれ? わたし何か間違えた?)
「ソン。体をくれてありがとう」
不意の囁き声がソンの鼓膜を震わせる。それと同時に闇と静寂がさらに深まり、月を映す川以外には何も見えなくなる。
「これで私は戒めから解かれ、自由に動けるようになる」
ソンは気配を感じた。いる。途方もなく大きな、何かが。水中より、水面を乱さずに地上に現れ、ソンの周囲の暗闇を満たし、こちらを見つめている。
「お声様?」
「安らかな眠りを、ソン。約束は必ず守るからね」
闇がソンを飲み込んだ。