5話 瑞祥

 春半ば。イギ県南部の支配者は妖に変わったが、ひし桜は例年と変わらず満開を迎えている。菱桜の名前の由来は花びらの形状が菱形に近いことであり、イギ県の森に固有の種であることからイギ桜とも呼ばれる。
 ソンは十歳になった。生まれてすぐ余命宣告を受けたことを考えると、ここまで来られたことは正に奇跡と言える。誕生日、コイは彼女を妖除けの少し外にある丘に連れて行った。思いがけないものを見つけ、それをソンにも見せてやるためである。
「ソン! あの木の真ん中の方だ」
「えっ、どこどこ?」
 コイが指さすのはひと際大きな菱桜の木。花びらに隠れていた何かが枝を蹴り、花吹雪を起こしながら宙に飛び立つ。
彩華鳥さいかちょうだ」
「わぁっ! すごっ……」
 彩華鳥。その羽根の色は「この世全ての美しい色がそこにある」と言われるほど多彩であり、飛んだ軌跡を淡い虹色に輝かせる、幻想美の巨鳥である。妖だが人間には無害であり、アバドンでは瑞祥ずいしょうとされている。
 コイが彩華鳥を見つけたのは偶然である。妖の侵攻によりアバドン周辺の生態系も変化し、通常ではお目にかかれない生き物にお目にかかれるのだ。
 ソンが彩華鳥の優美さに圧倒されている間に、コイは火を起こし、懐から取り出した閃石せんせきをかざす。閃石は熱を加えると花火のような火花を発する鉱物で、アバドン周辺だと妖除けを出てしばらく行った先の山中で稀に見つかる。コイがソンの誕生日に贈るために命がけの危険を犯して集めたのだ。
「ソン、花火だよ」
「す、すごい!」
「ハチミツもあるからね」
 ソンは物欲に乏しく、代わりに美しい風景や生き物を観賞することを好む。ソンがハチミツを舐めながら花火を見つめている間、コイは妖や獣が近くにいないか神経を尖らせる。いざとなればソンを抱えて妖除けの内側に走らなければならないが、彩華鳥が幸運を授けてくれたのか、日が暮れるまで危険な目には逢わなかった。
「帰ろうか」
 日に日に軽くなっていくソンを負んぶして帰路に就く。彼女の呼気からはわずかに血、そして機能不全の臓物の臭気が感じられる。
(ソンはもう長くないな)
 テナチ王国の薬師が薬草を加工・調合するだけの単一技能職であることは少ない。薬草を採取・栽培し、患者の診断まで行う者も多く、コイもその類の薬師である。コイは腕利きの薬師としてイギ県に名が知れ渡っており、他の集落に招かれ多くの患者を診てきた。その中にはソンと同じ先天的疾患を抱えている子供が何人かいたが、コイの経験上、ソンのように固形物が食べられなくなり、呼気に血と臓器の悪臭が混じり始めるのは死に際の兆候である。早い子で一日、どれだけ耐えても八十日で、過酷な苦しみの果てに死ぬ。
(五年で死ぬはずのところをソンは十年耐え抜いた。悲しいが、大した幸運、成果と言うべきなんだろう)
 コイはこれ以上落ち込みようがないほど沈んだ気持ちだが、取り乱したりはしない。人の行く末がその人の資質、人格、得失のみによって決まることは稀であり、むしろ運とか天の配剤という言葉でしか表現のしようがない人事を超えた理が、より強い力で人生を左右するものである。これは自然が過酷なテナチ王国の人々に普遍的な感性である。ましてや、コイは超一流の薬師である。病に人一倍詳しいばかりに、我が子を襲った理不尽もこのように冷静に分析してしまうのだ。

 家に着くと、体力を使い果たしたソンが早くもうつらうつら船を漕いでいる。コイは懐に隠した、致死量の睡眠薬が込められた薬筒を手で弄び始める。
(ソン……)
 コイはソンを山送りに選んだ。決めたのは、二度目の山送りが必要と分かってすぐのことである。
 もしもコイがアバドンの長ではなく、ただ一人の村人、ただの父親だったなら、違った決断をしていただろう。長に「ソンを山送りに選ばない」と約束させるまで延々とつきまとったかもしれない。あるいはアバドンの食料を盗み、ソンと二人で一か八かどこかへ逃げ出していたかもしれない。
 腹は括ったつもりだが、コイの中の何かが、決断を覆そうと猛烈な暴走を始める。それは走馬灯のような、取り留めのない思い出の連鎖として現れた。ソンが生まれた日のこと。ソンが初めて自分の足で立ち上がった日のこと。セイナが死んだ日にソンが初めて「ママ」と言葉を発した時のこと。薬師の重労働から帰宅し、眠い目をこすりながらソンの容体を確認し、彼女の寝顔を眺めていた日々――
 だが不意に、死に際のリウに触れた時の冷たい感触が鮮明によみがえる。思い出す。自分はたしかに、睡眠薬を渡したのだ。十五の家の家主に、お前の家の役立たずを間引けと。薬を渡された者達の表情を、彼らが目の前にいるかのように今でも思い出すことができる。
 ソンとの思い出の嵐がピタリと鎮まる。コイは穏やかな表情を浮かべ、そして――
「ソン。寝る前にお薬を飲もうか。父さんが発明した新しい薬があるから、これを飲みなさい。寝つきをよくする薬だよ――」