冬が開け、春が来た。テナチ王国の多くの地域では、冬は穏やかである。雪は少なく、川は凍らず、野山は緑の衣を脱がない。アバドンはテナチ王国でも温暖な方であり、ほとんどの住民が秋の装いのまま冬を越した。
アバドンは備蓄していた食料をほぼ使い果たしたが、餓死者を出さずに済んだ。食料争いも起きていない。それはつまり、人々が生き延びるためにするべきことをしたことを意味する。冬の間にアバドンでは十五の家で二十人が眠るように息絶えたが、誰も死因を詳しく調べようとはしなかった。風習に従い、遺体は火葬され、遺灰は川に流された。
人々は真相を察しているが、誰も何も言わない。極限状態のアバドンは奇妙な穏やかさに包まれている。
(二十人を間引いたのはこの俺だ。リウも、義母さんも、俺が死に追いやった)
コイは一冬の間にすっかり人相が変わってしまった。無表情になり、目の下には常に濃い隈を浮かべ、真っ黒だった髪は白髪が目立ちがちになっている。
コイの苦しみは罪の意識だけではない。冬の間、アバドンは食料を増産するために人事を尽くしたにも関わらず、食糧事情は悪化の一途を辿っているのである。
アバドンには住民が移住した空き家が大量に残されている。コイは妖除けの内側に畑を増やすためにそのような空き家を片っ端に潰し、住民がいる家も移設して土地を整理した。そして増やした畑には緑芋を植え付けた。緑芋は読んで字のごとく、皮が黄緑色の芋である。雑草のように強く、連作が可能。味と触感は良くないが、栄養豊富で食うだけで体が丈夫になるから、畑の万能薬なんて呼ばれたりもする。期待通りに緑芋が育てば、辛うじてだがアバドンの住民を食わせていける算段が立っていた。希望をぶち壊したのは、人事の及ばない妖の超常の力である。
「義兄さん、まずい。畑が変な花でいっぱいだ」
緑芋が芽を出すころ、デンが青ざめた表情で報告した。見ると、増やした畑に見たことも無い赤い花が咲き乱れ、緑芋を枯らしていたのだ。
「なんです、これは!」
調べたところ、増やした畑は赤い花で全滅していた。昔からある畑は無事だったが、理由はわからない。
食料増産計画が破綻し、さすがのコイも動揺を隠せない。コイにばかり苦労をかけるなとアバドンの人々も必死で知恵を絞った。
ある勇敢な男は危険を犯して妖除けの外に出て新鮮な土を仕入れ、短期間に実を結ぶ野菜の種を大量に撒いた。だが、どの作物も芽が出るころにあの赤い花が一緒に咲き始め、何一つ収穫には至らなかった。
またある大胆な女は周囲の制止を振り切り、赤い花を食べられないか自らの体で実験してみせた。
「この花、美味しすぎます! 花びらも葉も茎も、こんな美味しいものは食べたことがありません。果物のように爽やかで、密のように甘くて、卵のようにまろやかです。食べると肉のように活力が湧いてくる――」
デンが「アバドンの救世主かも」と期待を露にするが、コイが冷静に「体調への影響を様子見しましょう」と抑える。これはコイが正しかった。その日の夜、女は突如として正気を失った。意味不明なことを叫んで暴れ出し、制止しようとした夫を細腕の一振りで家の外まで吹き飛ばし、最後は刃物で自害した。女の遺体から流れ出て床に染みた血からはあの赤い花が咲き乱れ、家ごと焼却せざるを得なくなった。
コイとデンは再び食料事情を精査した。結果、もう一度二十人の間引きを行わなければ、春の終わりを待たずにアバドンの食料が尽きることが判明した。
(何ということだ……)
コイの脳裏にソンの姿が浮かぶ。前と同じ基準で選べば、どうしてもソンを選ばないわけにはいかない。
「義兄さん……」
デンが心配そうな表情でコイを見つめる。デンは母であるソハンを奪われたが、それでも変わらない忠誠心でコイを補佐し続けている。アバドンの未来に尽くすと腹に決めているのである。
デンは葛藤している。ソンを山送りに選ぶことはあまりに理に適っている。「幼子を犠牲にしてまで生きながらえたくない」などと言うのは、極限状況とは無縁の人間が好む自己愛に満ちた夢想に過ぎない。自分を犠牲にしてまで守りたいものなど大半の者は持っていないし、まして他人の子供である。もしもコイがソンを選ばなければ、アバドンは暴動で自滅するだろう。忠実な秘書であろうとすれば、ソンを選べと言わざるを得ない。コイの実の娘で、デンにとっても姪にあたる、九歳の子供を。
「ねえ、ちょっと!」
窓から突き刺さる女の声が、室内の気まずい沈黙を破る。家主の返事を待たず、デンの従姉のシマがずかずかと上がり込み、捲し立て始める。
「また山送りをやるつもり? この辺にしておきなよ!」
「シマ。今がどういう状況かわからないあなたではないでしょう」
「状況がどうとかそんな話をしにきたんじゃない。口減らしで生き残るなんて、冗談じゃないって話だよ。全員が生きられる方法じゃないとあたしは受け入れないからね!」
あまりに非現実的な要求に、大人の男二人が揃って深いため息をつく。コイはシマの無責任、非現実的な物言いに内心苛立ったが、同時に安堵に似た感情も覚えた。もしもアバドンが全員コイのように良心を封じ、非情の決断を容易く受け入れるようになったらと想像すると、あまりに悍ましい。理に支配され無垢と良心を擁護する者がいない集団など、怪物の群れとそう変わりないではないか。
シマは言いたい放題言うとさっさと帰ってしまった。彼女も愚かではない。ここで議論になれば、山送り以外にアバドンを存続させる術が無いことを、彼女自身が認めざるを得なくなることがわかっているのだろう。